和道流空手道とは
「空手」は琉球に発生した一つの武技で唐手と呼ばれた。
琉球が薩摩藩の属領となり、一切の武器携帯並びにその使用法の錬磨も禁じられたため型による独習法が生まれた。

大正十一年六月頃から、東京大阪在留の沖縄県人により勃興した。私は幼少の頃体質虚弱のため、就学前より母の叔父旧土浦藩武術指南江橋長次郎に柔術の教えをうけて以来稽古をさせられ、五歳の春から八十八歳の今日まで到頭続けてしまった。想えば優しかったが、一方きびしかった武家堅気の教育に感謝の涙を流している。あの母がいなかったなら自分の現在はどうであったろうと、母の慈愛に合掌している。

武道により人間教育に身を奉仕している者として、幼児教育の重大さをつくづく感じている。明治四十三年十八歳の時上京して、早稲田の早大寮に寄宿して道場通いをつづけた。当時は市内各所に古流柔術の道場があったので稽古を続けた。大正九年六月一日二十九歳の誕生日に、恩師中山辰三郎行義師より神道揚心流柔術免許皆伝を允許され、現在は同流第四世を嗣承している。

大正十一年六月頃から東京大阪の在留沖縄人により唐手が普及し始めた。以来唐手の研究に没頭し、その特徴を採り欠点を捨て之を柔術拳法に採り入れ組手、逆投げ、居捕、立会、短刀捕り、真剣白刃捕りを創作し唐手の日本武道化に専念した。昭和四年頃現在の日本古武道振興会創立と共に、和道流空手道として入会した。これが空手界の流名の嚆矢である。

尚 和道流の流名は次の経緯から付けられた。日本武道の振興を目的として、毎年京都の武徳殿で武道祭りが行われていた。この武道祭りが昭和十三年だけは流祖祭りとして実施されることになった。
ところが、空手には流祖がない。そこで私は、自分の工夫で研究を重ねてきた空手の流祖を神道揚心流柔術流祖、秋山四郎兵衛義時とし、流名を神州和道流空手術と考えた。当時、道場としていた、新宿柏木の自宅に来ていた、江藤(明治大)、木原(農大)、平川、(立教大)、李(中央大)、川上、(明治大)清水、(日歯)の諸氏と相談し、木原君にこの「神州和道流空手術」の流名を届けさせた。これが日本における最初の空手の流名となった。

その後、流祖祭から戻ると、久保義八郎先生(柳生新陰流、土佐藩継承者)が「神州」も「和」も
「日本」を表すから、和道流だけにした方が良いとの助言があり、翌昭和十四年の武道祭りには
「和道流」として届け出た。

(和道流空手道連盟発行書籍より)